京大をこじらせて
はじめに
この記事はサークルクラッシュ同好会 Advent Calendar 2017の8日目の記事です。
ぼくみたいな、社会的地位も突出した得意分野のない拗らせ女がエッセイ的にツイッターをやろうとすると、プライベートの話を切り売りしていくしかないのですが、それも全て見せるわけにもいかないので感覚の高まったある一点だけを取り出すことになります
— 主は来ませり (@zweisleeping) 2017年11月20日
普段はTwitterで140字で自分語りをしているサークルクラッシュ同好会OGの者です。実際、まとまった文章を書くのは得意ではなくてあまり自信はないのですが、せっかくの機会なので、企画に参加することにしました。
辞書通りの意味を踏まえた上で私なりの考えだけを書くと、「こじらせ」とは、それは何かの価値を信じていいのか、いけないのか、わからないままに実践の場に身を晒し、手探りで価値観を決めなくてはいけない状態のことを呼ぶのだと思います。迷ったままなのだから当然ぎこちないし、納得の行かないまま行動しないといけない。仕事も恋愛も結婚も家庭のあり様も、あらゆるものの選択肢が増えている時代なのだから、もはや誰もが何かにこじらせるのは当然のことと思います。
このエントリーは私の人生における「京大」の価値の変遷の観点から書かれた自分語り群です。つまり自分の最終学歴のことなので、「自分の学歴に固執しているつまらないやつ」と言ってしまえば本当にそれ以上でも以下でもないです。ただ、私の場合、幼少期からそれは1つの固有名詞以上の価値を持っていました。そしていまだにこいつに振り回されています。つまり、京大をこじらせていると言えるのではないでしょうか。
小学校:憧れの形成
物心ついた頃から京大はそこにあった。父親は京大某学部・研究科を博士課程まで出て関西の大学で大学教員をしていて、割と子供の教育に熱心な方だったのだと思う、小学校に入る前に、仮名の読み書きや四則演算を家で習っていた。小学校入学後も、正規の学習過程より少し先のことを家で教わっていたから、筆算のやり方が学校で先生が教えたのと違っていてバツがついたりもしていた。先生からすれば面倒な家庭である。正直今ではどんな風に何を教わったのかほとんど思い出せないのだが、我が家では父親が印刷して読んだ後の論文の裏紙が、計算用紙として用意されていたのは印象に残っている。何が書いてあるかはもちろん、訊いても理解できないのだが、聞いているうちにそれらが大学という場所−−親戚の家が京都にあったこともあって京都大学に何度か遊びにも行っていた−−でせっせと生産されてくることはわかっていて、「こんなに英語と記号がいっぱい書いてある紙は家でしか見たことがないし、父親は特別な仕事をしているに違いない。将来は父親みたいな大学の先生になりたい」と幼心に思っていた。父親は例に漏れず理屈臭いタイプではあるのだが、子供のことは手放しに褒める人で、「ませりは理解が早い」と言われていた。だから父親が行ったという京大に行くのはそんなに難しくなんじゃないかと、大変お恥ずかしいことに、小学生にしてナメていたところがある。実際中学受験まではその「理解の早い」頭でなんとか乗り切ることができ、近所の進学校に収まることに成功した。齢12にして私はファザコンを通じて主体的に京大に憧れ、そして確実に近づいていたのだ。
中高:謎の自身と固執
中学では周りが勉強できる人ばかりになって焦ったが、まだ自分は頭がいいからなんとかなると思っていたし、この時期は人生で一番京大と遠かった。そんなことよりBLを介してエロと出会い、中二病を最大出力で患い電撃文庫と講談社ノベルスを片っ端から読んで、暗いJ-POPばっかり聴いて、保健室登校をしていた。
なんとか内部進学した高校では、高3の春の引退まで部活を比較的真面目にやっていた。うちの部活はかなりOBOGの出入りが多く、休み時間や練習後に話を聞いていると、京大はとにかく自由だということだった。学生はフラフラ好き勝手しているけども、みんな頭がいいから面白いし、何より京都がいいところだと。さらに「お前みたいなひねくれもんは京大がいいに決まってる」とまで言ってくるわけである。まだ中二病の痕が引ききらず、ひねくれてることを悪びれるどころか矜持を持ってさえいた私は「ふふん、やはり京大には私みたいなのが行かないといかんのね」とヘラヘラしていた。
周囲の行きたい大学は引退したくらいの受験シーズンになって初めてわかることだが、蓋を開けてみればやはり関西の進学校と言う感じで、京大・阪大・神戸大あたりを目指す人が多かった。私はそこまで安全圏ではなかったけれども、現役生の強みというやつで、京大志望と言うことを恥ずかしくは思っていなかった。実際部活が終わった後はかなり勉強に打ち込んでいて、数学は伸び悩んだけれども第一志望の文学部なら配点が低いし、比較的得意な英語と国語でカバーできるのでは、というつもりでやっていた。そうこういう内に、高校3年の夏休み明けからの大詰めの時期になるのだが、前世で何をしたのか、私はそんな時期にだいぶひどい失恋をしてしまう。あんなに意味不明な感情で頭の中がいっぱいになったことはもう後にも先にもないのだが、とにかく集中できなくなってしまった私は、元々偏差値が足りなかったこともあり、無事にセンター試験に失敗。いくらセンターの配分が低い京大といえども、数学が2完*1もできない人間には絶対超えられない壁を作ってしまっていた。まだ呆然としていた私はうわ言のように、「やっぱ京大に行きたいなー……」と言っていた。最初は他の国立の後期を受ける予定もあったのだが、センター後の進路面談中、担任は私の様子に何かを思ったのか、「下手に出して受かってしまうとよくない」と私の目の前で後期用の内申書を破り捨てた。おかげで私は、幼少期から連れられた左京区は吉田南キャンパス、共西の3階で試験を受けただけで初年度は他にどこも受けずに済んだ。あまりにもぼんやりしていたので、試験監督の林教授*2がやたらと目薬をさしていたのはよく覚えている。
予備校:「東大」の出現
そんなわけで予備校に通うことになった私は「東大京大」と名前がクラスに入ることになった。そこで東大志望者に混じって勉強したことが、そこまで私の中で絶対揺るぎなかった京大の価値を揺がすことになる。そのクラスは中学受験の模試で聞いて以来縁のなかった灘・甲陽・東大寺ならびに神戸女学院・四天王寺の皆さんでいっぱいだった。みんないかにも育ちがよく賢そうで、特に西大和出身の男子と女子高の子たちは垢抜けていて、自分で服を買ったことがないような干物女子高生の私にはカルチャーショックだった。彼らの同期にはもうすでに東大に受かっている人もいて、休みに戻ってくるというからお前も一緒に茶をしばこう*3と誘われるのだが、その東大生たちは駒場という私の知らない土地での出来事、東京の地下鉄・物価の高さ・出汁の適当さ*4、そしてフランス語文法の難解さについて嘆いて見せるのある。自分がどれほど無教養な田舎者なのかを思い知らされたような気がして、なんてハイソなんだ……と、思わずそれまで使ったことのない語彙が私の脳裏に浮かんでいた。それまで京大のことしか信じていなかったのに、東大はとても素敵で楽しそうなところに見えていた。しかし今更志望を東大に変えて受験するのは後が無い浪人生には厳しすぎることで、そのまま第一志望、京都大学文学部を受験した。*5
大学には来たものの:ファザコンの終わり
無事合格し京大生になるという幼い頃からの夢を叶えた私には、宝の山のような全学共通科目のシラバス、想定外の事態による実家からの往復3時間の通学、東京大学文科一類に合格した彼氏との遠距離恋愛、新しいクラスメイトと第二外国語の不安が残された。通学時間が長いのは何よりこたえた。サークルもアルバイトもろくにできない。それはつまり、自由に使えるお金と時間がないということだった。お金もないので彼氏に会いに行く交通費を捻出するのも一苦労だし、高校の頃と変わらない生活で、何が自由だ、こんなのなら東大に行っておけばよかったと、滅茶苦茶短絡的なことを本気で思ってしまっていた。「京大」の絶対的だった価値が完全に揺らいでいた。そう感じている自分に驚いたりもしたが、別になんのことはない、理想と現実のギャップなんてごくありふれた話だ。でもせっかく来たんだから少し頑張ってみよう、と自分に言い聞かせていた。だからか知らないが、1回生の前期はかなり成績が良かったのをよく覚えている。
前期を終えたあと、運よく大学の近くに住まいを手に入れ、通学時間を短くし、アルバイトで収入を得ることに成功した私の生活はどんどん楽しくなった。一方で大学そのものに対する気持ちは益々なんとも言えないものになっていた。そもそも研究者の親に憧れて京大に来てはみたものの、このまま大学に残れるほど私の頭は良くないことを、私は薄々わかっていたのだ。授業を受ければそれなりに単位は出るし、レポートも書けるし、でも教授の言った本を貪るように全部読むほどの知的好奇心はないし、ラテン語やギリシャ語がどんなものかさわりは知りたくてもそれ以上深く読める気が毛頭しないし、本音を言ってしまうと必要を感じない。「このままじゃ京大来たけど、やっぱり京大じゃなくていいってことになってしまう、というか大学に来る理由なんてあったのだろうか?」そう思うとどうしようもなく惨めだった。かといってこのまま大学を辞めて働いたりどこか受け直したりする勇気もなかった。生活が楽しいことにかまけていった。働いて作った自由なお金があって、それで好きに本を買って読んで、コーヒーを飲んで、ラーメンを食べ、友人と酒を飲むことができる*6
。ほぼ自転車で移動できる京都は、そういう生活に最高に適していた。
確か2回生の終わりぐらいだったと思うのだが、その時の恋人からDVDを借りて『四畳半神話体系』のアニメを見た。
詳しくは書かないが、主人公「私」のように学業面で救いようのない京大生像は学内全般に十分に普及しており、自分もうそうなってしまってもいいかな、と言うモードに入ってしまっていた。*7それでも京都の街は私たちを許してくれる、森見登美彦作品のように大円団を迎えられるかどうかはわからないけども……。
こうして、アカデミックな論文裏紙生産所としての「京大」と私の関係は終わった。それはある意味、長く患ってきたファザコンの終わりでもあったような気がする。私はそれなりの勉強で、単位のために卒論を書き、就職する、別にひねくれている必要も何もない、院まで居座る理由はない、京大の学生証を持っているだけの人になった。いや、すでにそうだったのだが、自分でそのイメージを受け入れることに成功したのである。
就職活動:「京大」なしで生きたい
ただの京大生のくせに、私の就活はいい加減だった。当たり前のことだが、働きたくなかったのだ。とはいえ臆病なので意志を持たずに就活をするしかなく、いくつか大企業を受けては落ちているうちに、「まぁ京大だから就活はなんやかんや大丈夫でしょう」みたいなことを言われるのも、自分が言うのも、だんだんうんざりしてきた。自分は京大で何かやっただろうか?別に何もしてないのに、とりあえずその肩書きで採用されるのは癪でしかない。だから1つだけ望ましいことがあるとすれば、「京大」という肩書きから逃げてもやっていけるところがいいな、と言うことだった。
ある時、就活でこじらせているだろう私に何か言いたげな母親の勧めで、大宮エリーさんのエッセイ『生きるコント』を読んでいたら
彼女は東大の薬学部から電通に入ってクリエイティブで成功した人で、その本の中か新聞記事だったかに「美術系のものをつくる人たちと関るのが自分は生きやすいと感じた」みたいなことが書いてあって、「ああ、もしかしたら自分も、自分みたいなペーパーテスト得意な人ばっかりのところじゃないところに就職してみるのも悪くないかも」と思わされた。すでにその大手広告代理店には落ちていたが、その方向性でなんとなく就活を続け、web系の会社の総合職に内定をもらえた。結果的に3年近くやってみて、美術系の人はどうかわからないが、自分はエンジニアと仕事するのは無理が少ないと感じているので(周囲がどう思っているかはわからないが)選んだ業界はそんなに間違っていなかったのかもしれない。
おわりに:「京大卒」は続く
そんなわけで京大を出た私は、今、東京にいる。京都をなぜはなれたかは、曖昧にだがこのブログで過去に書いた。
就職した直後こそ大学の名前でどうのこうの言われたが、今職場で京大卒だからということは特にない*8のだが、最近自分としてはかなり印象的なことがあったので、これを最後に筆を置こうと思う。
最近一度だけ真剣に転職を考えたことがあった。同じ業界の、行ってみたい会社にエントリーシートを出したら全部通ったし、面接を全部パスして内定が出たところもあった。色々理由があって辞退したのだが、かなり承認された気分だ。面接だけではなく課題での選考もあったので、現職でやってきたことにスキルとして価値があったのかなと思っている。そんな話を出張で東京に来ていた父親に話したところ「まぁ……そんなにうまくいったのは、お前が京大卒だからだよ」と言うのだ。本質的でアカデミアとしての価値を持った「京大」への憧れを、論文の裏紙で見せてくれた(見せつけてきやがった)父親から、ただペーパーテストを通ってそのあたりで暮らしたという証しかない「京大卒」の肩書きについて言及されたのだ。別に本人は何も考えず半ば冗談で言ったのだろうが、私にはなんとも皮肉なことだった。
「こじらせ」とは、それは何かの価値を信じていいのか、いけないのか、わからないままに実践の場に身を晒し、手探りで価値観を決めなくてはいけない状態のこと、と冒頭に書いた。私はまだ「京大」に対する自分のスタンスを決定することが、おそらくできていない。当初望んでいたようには在籍できなかったし忘れたいのだけども、京都での暮らしは楽しかった。それに実際、学歴は有利に作用していたのかもしれないし、それを誇ってもいいのかもしれない。全部全部、くだらないことなのに「京大」の二文字に情がこもり過ぎてしまっているのが恥ずかしい。何か他の価値を得て、京大のことを全部忘れられた時、このこじらせは終わると信じて、やっていくしかないのだ。
以上、お付き合いありがとうございました。
明日の担当は小津(@oz4point5)くんです。よろしくお願いします。
*1:2つの大問で正解すること。京大文系数学は5問の大問で構成されており、文学部なら3完できれば満足、それ以上取れれば敵なしと言う感じだったと記憶している
*2:情報・資料学の林 晋先生のこと。当時は文学部にもプログラミングをする研究室があるなんて、さすが「記号ならなんでも扱う学部」、なんて言って全然関わりがなかったのだが、働き始めて先生のサイトを見るとなかなか興味深いSusumu Hayashi's Home Page
*4:関西人の一部は東京を馬鹿にする時、「あっちで食べたうどんの出汁は黒いのにしょっぱいだけ。お湯に醤油を入れただけだ」などと言うそうだ。
*5:余談。浪人の緊張のせいか、二次試験は二日とも腸の具合が悪く、それほど余裕がないのに全科目トイレに行くなどして大変苦労することとなったのだが、例の事件と同じ年の受験だったため疑われていないか不安だった。
*6:例えば、コーヒー:一乗寺のアカツキコーヒー ラーメン:一乗寺ブギー お酒:百万遍ののら酒房 全部有名店だけども。どれもまだ健在みたいでよかったです。
*7:本当のことを言うと私はクールでなんでもそつなくこなす黒髪の乙女、明石さんを演じたかったのだが、内実どちらだったのかは言うまでもなかった。
*8:一度、仕事中に質問されて答えられない時「それ京大で習わなかったのでわかんないですね〜」と言ったらと滅茶苦茶ウケがよかった。これは京大卒の皆さんにはぜひ試していただきたい。