パリに行ってたけどブログ更新が面倒くさくなっていた話

パリブログ書いてなくてごめんなさい

結局パリには2/9~23の2週間滞在していた。厳密に言うと途中3日はベルギーにいたので11日。
ちゃんと現地で毎日ブログ書きたかったんだけど、宿のネット環境が不安定だったり、借りたPocket WiFiの通信料上限が気になってしまって書けなかった。はてなブログ重い。

今回はざっくり旅行全体のよかったところを書こうと思う。

実はパリは2回目で、前回の1週間の滞在は大きな美術館と市内名所・ベルサイユ宮殿を回るだけで吹き飛んでいった。
パリや東京のような大都市には、メトロの線やエリアごとにそれぞれのカラーがあるものだ。しかし大きな観光地だけ回っていると道に迷うことも少なくて、都会全体を楽しむということが難しい。
今回はのんびり昼に起きてから夜まで空いてる小さな美術館を探して行くとか、なんとなく数駅歩いてレバノンサンドイッチを食べに行くとか、そういうことができたので、満足している。

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イヴ・クラインが作った個人の肖像。ぼくが誰か高名な作家に彫像を作ってもらえるとしても、こんな風なのはできたらやめてほしいなと思った。


美術館

やっぱり旅行のメインは美術館巡りだった。
美術館に行くことは、「好きだから行く」というか、ずっと続けているとほとんど義務みたいになってきた。
パリで行った美術館は、以下の通り。

オルセー美術館
前は改装工事中で縮小展示だった、想像以上に広く、最後は走り回っていた。印象派で有名だが作品数も人も多く、あまり落ち着いて見られない。むしろ1Fのナビ派や2Fの新印象派の方が見応えがあった。
2Fにある美術館のレストランはフランス料理の割にコスパがいいのだけど、お腹が一杯になりすぎて展示を見るのが苦しくなり、展示室でおならが出た。


・ポンピドゥー・センター
ジェフ・クーンズ展開催中。思った以上にジェフ・クーンズは作品にコメントがしづらい作家だなと思った。完全無敵のレディ・メイド。ゴム製ミニプールをアルミで作って、本当にゴムに見える塗装をして仕上げた作品が一番印象に残っている。
あとは常設で、ソフィ・カルの『本当の話』が展示されているのを初めて見た。
作家名を忘れてしまったが、大人が子供を間接的に殺すような行為を必死でやる(たとえば、砂浜に深い落とし穴を掘り、そこにクラゲを大量に入れ、砂をかけて隠して風車を刺して帰る)映像作品があって、とても面白がって見てしまった。本当に痛快だった。


ピカソ美術館
日本では一度に大量にピカソにお目にかかる機会がないのでわかりにくいことだが、ピカソは同じ時期に違う画風で大量に制作する作家で、本当に「全部ピカソがやっちまった」と言ったというポロックに同情したくなった。マレ地区の閑静な住宅街の中で、美術館自体の居心地がよかったのもよく覚えている。


・ピナコテーク・ド・パリ(クリムトとセセッション展)
企画展。一緒に「ゲイシャ展」もやっていたが見に行かなかった。クリムトの有名作品も数点来ていたが、どちらかというと当時のウィーンの雰囲気を大事にした展示方法だったかな。それはこの題材なら当たり前のキュレーションだと思うけれども。何より印象的だったのは、観客のオシャレさ。東京の美術館に行くとたまにいるようなモード系の人が多くいてびっくりした。ぼくは日本人観光客と思われて狙われたくないので、海外では絶対にオシャレをしないのもあって、少し恥ずかしいくらいだった。常設展もあるはずなのに入れなかった。そもそも開けてなかったのかもしれない。


・パリ市立ヨーロッパ写真美術館
エリック・ロンドピエール展がとても面白かった。映像が移行していく中で生じる、映像の中でしか有り得ない瞬間(たとえば、無声映画のキャプションが、役者の顔の上に謎のオブジェクトとして現れかけている瞬間)を写真で切り取る作品群。ネットで動画を見たときにできる読み込み不良で画像の荒れをスクショしたシリーズなど、面白かった。
一口に現代の写真作品というものにもいろんな軸がある。ジャーナリズム的な側面のあるもの、広告や雑誌のグラフィック的なもの、写真家と被写体との関係性の上に成り立っているもの、発想先行のいかにも現代アート的なもの。館内では4つの展覧会が同時に開催されていて、それぞれが上にあげた軸それぞれを代表しているかのようだった。


・マルモッタン・モネ美術館

上のツイートは企画展について。
この美術館の目玉はモネの『印象・日の出』と十数枚の睡蓮だ。モネの睡蓮のことを好きだと言うのは、「にわか」みたいで恥ずかしいような気もするのだけど、実際あの絵は本当に不思議で何枚見ても飽きない。近づいてみるととても荒々しいタッチの色の集合と感じられるのだけども、全体が見えるように少し離れると、これ以上この風景を正確に(写実的でもあるが、やはり少し違う)描写する方法などなかったのだと気付かされる。そしてどれだけモネが同じ池を見つめていたのか、その時間的な奥行きまでもが、同時に複数枚展示されることで立ち現れるのだ。その時いつも泣いてしまって、「ああ人間は死ぬんだ」と思うくらいにぼくはエモい。


・ケ・ブランリー美術館(フランス版みんぱく
前の記事で書いた。このブログ書き始めたら止まらなくなって疲れたし休憩。


・パリ市立近代美術館
パリで近現代美術というとポンピドゥーと思われがちだが、こちらにも膨大なコレクションがあった。戦前のものが多かったけれども。監視員のおじさんに柔道六段であることを自慢され、日本いいよね盆栽〜とか言われて言葉に詰まった。入場無料。一番下のボルタンスキーの部屋が閉まっていて見られなかったのが残念すぎた。


・パレ・ド・トーキョー
市立近代美術館と同じ建物。訳すと「東京宮殿」になるけど日本は関係していません。現代美術の巨大ギャラリー。"Le Bord des Mondes"(世界の端)と題された展覧会が開催されていた。美術業界の外の人々、つまり「アウトサイダー」たちの芸術的な創造物を集めるというコンセプトだったのだけど、とても強烈な作品が多かった。たとえば、ポーランドのティーンエイジャーたちが、架空の国家を設定し、その間での戦争ごっこを始めたのだけども、凝りすぎてしまった。その設定は数世代に引き継がれ、その膨大な資料が生み出された。展示物の1つである、タイプライターで打ってシーリングされた一見本物みたいな「外交文書」には唖然とした。
日本人も二人出ていて、一人はおなじみ阪大の石黒浩教授のロボット。でもフランス人には川上賢司さんの「珍道具」の方がウケていた。ぜひ下の記事を参照してほしい。


ニッポンの珍道具:イタリア版「WIRED」の琴線にふれた30選 « WIRED.jp


オランジュリー美術館
マイナーな美術館を周っているせいか、ここで珍しく日本人観光客をたくさん見たように思う。日本人観光客の中には、日本語を理解できる人が周りに居ないと思うと、作品の前で適当な当てずっぽうを連発する人がいる。マルモッタン美術館ですごくシュールな現代彫刻を前に、「(興味なさそうに)これもモネ?」「いや、これはモネじゃないよ(怒)」と女子大生2人組が会話していたのが一番面白かったけど、オランジュリーでも近くの中年女性たちがずっとその調子でボケまくっていた。
ここのメインは先述したモネの睡蓮を4枚ずつ展示するために作られた2つの部屋で、3年前ここでモネの睡蓮の魅力に気付き、人はいずれ死ぬのだと思い、当時の交際相手との別れを決意した。今回はその時よりは幾分冷静に見ることができた。


ギュスターヴ・モロー美術館
そこまで広くない旧モロー邸に、彼の晩年の作品を置けるだけ置いている。壁一面モロー。実際に作品を見て面白かったのは、大量の装飾の輪郭を細い線で書き込むだけ書き込んでそのまま色を置いていない部分がとても多いということ。神話や聖書主題でも独自の解釈で描かれているので、解説を読まないと何がなんだかわからないものも多かった。それでかもしれないけど、パリで一番日本語解説が充実している美術館だった。


ルーブルはなんとなくもういい気がしてしまってパス。グラン・パレ、プティ・パレは企画展をやっていなかった。ジュー・ド・ポムという国立の比較的新しい写真専門ギャラリーが展示替え中だったのにはかなりがっかりした。カルティエとアンリ・カルティエ・ブレッソン財団に行かなかったのは、セーヌ川よりもかなり南に下る気が起きなかったという怠惰の結果なので、反省。それでもこれだけ行けたのは2週間という長い時間があったおかげだろう)

ベルギーでは
ブリュッセルの王立美術館の4館(26歳以下だと全館通し券が3ユーロで唖然)
ブリュージュで2館(メムリンクなんて日本できっと見れない)
に行った。フランドル絵画特有の写実ゆえの不気味さと、どこか素朴にも感じられるその複雑な魅力みたいなものを再発見できた。特に夏にイタリアでルネサンス絵画をたくさん見たのもあって、それらが際立ったようにも思う。

 

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「わたしはシャルリ」「まだ?」


パリは本当に汚い

二度パリに来たことで、「もう一度来ることはないかも」「来れたとしてもあと何度……」という気持ちが強くなった。実はパリは正確には3度目で、ぼくは0〜1歳の間、市内のアパルトマンに住んでいた。何も覚えていない。親がテレビを指さして「あっ、リュクサンブール公園だ〜!ここであんたをベビーカーで連れて散歩したのよ〜」と言われる度に腹を立てていた。だからパリはぼくの人生にずっと影を落としている。思い出など存在しなくて当たり前の幼児期に、パリなんかに連れて来られたばっかりに、そこに耐え難い記憶の欠落が存在するような気がしてしまっているのだ。メトロは汚いし、物価はクソ高いし、店員の愛想はたいてい微妙だという現実を知っても知っても、ぼくはパリへの憧れを断ち切れないのだ。

でもこれは本当に個人的な執着なので、友達に「パリどうだった」って訊かれたら、「たまにメトロが臭い」って答えてます。マジで。